二十二日講 2013.3.31

12年に1回といわれる地元今市自治会でも二十二日講、自分の実家を宿として営まれました。伊香郡の浄土真宗東本願寺派の門徒さんに来ていただき、準備をしていただきました。また今市の住民の皆様がたくさん来られました。法要は明源寺の松浦住職、高野の橘住職にしていただきました。ありがとうございました。



言われ・・・(引用)
天明八年(1788)、東本願寺第十九世乗如上人45歳の時、京都で大火が起こります。焼けた範囲は、東は鴨川べり、西は千本通り、南は七条、北は鞍馬口・紫野まで、焼けた寺は990ヶ寺、民家18万3千戸、焼死者2600人余りと記録されています。この火災で、東本願寺のご本尊などは運び出されたものの、大堂や壮麗なる諸殿もことごとく焼失してしまいました。

病弱の身ながら、全国をめぐり再建を訴えられ、翌寛政元年(1789)再建工事が始まります。全国からはせ参じた門徒衆が宿泊した建物が「お小屋」「詰所」と、呼ばれました。乗如上人は心労の故か、4年後亡くなられ、二十世達如上人が継がれ、大火以来11年ぶりに見事に竣工しました。その落慶法要に、達如上人が父乗如上人のご寿像(存命中に描かせた絵)を掲げて?修されました。

何年もの長い奉仕中、乗如上人の法話を夜な夜な聞かせていただいていた湖北三郡の門徒衆もそろって参詣し、ご満座の日には、御寿像にしがみついて別れを惜しまれたといいます。これを見た達如上人が、寿像の写しを2幅作り、湖北の門徒衆に下げ渡されたのが始まりと(も)言われています。上人の思し召しに感涙した人たちが、乗如上人の命日にちなみ二十二日講と名付け、実に二百年余りにわたり連綿として、年々「御越年(ごおつねん・ごほつねん)法要」を?修して来たものです。

 
自分は全く予備知識なしでお迎えしました
 
乗如上人を敬い読経
 
法話を聞かせていただく
 
立派な掛け軸
 
今市の門徒だけで最後の読経
 

二十二日講(御巡化法要)の運営組織と厳修方法

二十二日講の組織は湖北一市三郡を六つの地区に分けて構成されています。 
1、旧長浜町 
2、旧坂田郡西部(山西) 
3、旧坂田郡東部(山東) 
4、旧浅井郡東部(上組) 
5、伊香郡一円 
6、旧浅井郡西部(下組)
 毎年十二月二十六日から翌一月八日まで、二幅の御影を双懸(そうけん)して「御越年(ごおつねん)法要」が営まれ、参詣された各組の代表者がここで供えられたお鏡(二十四枚)を分けて頂いて帰り、これに餅米をつき混ぜ「鏡割り法要」を厳修し、この御座にお参りした各集落の世話方は、頂いたお鏡に更に餅米をつき混ぜて必要な量のお鏡やお華来を作り、集落毎の「御巡化(ごじゅんけ)法要」をお勤めしてお供えを各戸に配られる仕組みになっています。 
 「御越年法要」はこの組織の一から六の順序でお勤まりになり、その後、一から三の組織で一幅の御影が、四から六の組織であと一幅の御影が御巡在になりますが、「鏡割りお講」は各組織のそれぞれ数カ所(概ね旧村落)で、営まれ、そのあと各集落への御巡在となる訳であります。 
 こうして、湖北二市二郡全ての御門徒が二十二日講の御縁にお遇いすることが出来るようになっています。今日、私たちはこの勝縁に遇い、乗如上人の御苦労、我がご先祖のご苦労と喜びの姿を偲びつつ、更に二百有余年連綿と伝えられてきた法悦の歴史を感じて、掌を合わす我が身の誇りと幸せを噛みしめたいものであります。

二十二日講参考資料より