第一部  天空の村 太平寺

by hatabo 2002


 昭和38年(1963年)、伊吹山中腹にあるひとつの村が、惜しまれながらその歴史を閉じました。滋賀県坂田郡伊吹村大字太平寺。標高450mの秘境ともいえる特異な立地。この村の歴史はそのまま伊吹町の歴史です。奈良時代以降、日本七高山・伊吹山の山岳信仰の拠点として、多くの修行者が集い、弥高寺と勢力を争った伊吹山寺の中心寺院・太平寺。ばさら大名・京極道誉(どうよ)が本城とし、足利尊氏と新しい世を語り合ったという太平寺城。そして円空が心のよりどころとした村・太平寺。
 湖北平野から琵琶湖、西近江まで眼下に広がり、真っ白なソバの花の中に浮かんだ天空の村・太平寺。

第一部 天空の村 太平寺

第二部 石灰産業と太平寺

第三部 円空と太平寺

さと太平寺企画展示の資料を貸していただいて作りました。



太平寺の場所


太平寺集落


昭和38年6月13日 読売新聞記事 「ナダレよ、さようなら」より引用しました・・・

 太平寺は、伊吹地区から49曲がりの急な林道を登りつめたところで、伊吹山三合目スキー場のちょうど西側。標高470mの高値にある。地区の民家はびょうぶのようにそそりたつ石灰岩を背にしたわずかな土地に集落を作り、かやぶき屋根に混じって比較的新しい瓦屋根のこじんまりとした家なみが坂道に沿って並んでいる。

 この地は「坂田郡誌」によると約1000年前、伊吹山で修行した僧三修(さんしゅう)が寺院を建ててから霊地となり、御醍醐天皇(1218〜1330年)の頃、亀山天皇の皇子守良(もりよし)親王が同寺に身を寄せ、1333年には京都六波羅の戦火を逃れたあと伏見、花園両上皇、康仁親王らがかくまわれるなど皇室との縁が深かった。のちに湖北の領主となった京極道誉が北陸の要路である北国街道を守るためこの地に砦を築き、太平寺の館(やかた)を建てたという。


上から見た太平寺集落、上にはセメントのベルトコンベアが


昭和38年 集団で山を降りる時の写真でしょうか
 坂道に連なる民家からは伊吹と草野の山間をぬって流れる姉川、緑色の絵の具をチューブから押し出したように横たわる横山、晴れた日は琵琶湖も一望できる景勝地。だがこの風景も冬になると一変、下界は白一色、民家は3〜4mの雪で覆われ、豪雪に見舞われた昭和38年の1月は約1週間、山麓との交通が途絶え、雪崩におびえた日が何日も続いたという。「山を降りよう」と地区住民が話し合ったのも裏山に不気味ななだれの音が響きわたる2月中旬のこと。地区会議所で、「山林の仕事では食べていけない。農業をするには4〜5kmも坂道を下った所の田を小作しなければならない。」と集まった人々が生活の不平不満を話し出したのをきっかけに、裏山の峰続きにある小泉地区のセメント工場原石採取場に土地を売り、その金で移住してはと話がまとまったという。三原区長が大阪セメント工場にこの話を持ち込んだところ、順調に話が進み、5月下旬、集団移住が決まった。 (昭和38年6月13日 読売新聞記事より抜粋)


冬の太平寺は雪に閉ざされ、遠くマキノや竹生島が見える


この頃子どもだった人も、今は50歳代

 太平寺のくらし

 千古の歴史を秘める古刹の面影はおろか、懐かしい村跡さえももはや判然としない。今はただ荒涼の山肌の起伏に、呆然とたたずむばかりである。
 おおいかぶさってくる伊吹の険阻な山肌に生きた村人達。かつてはソバの白い花があたりを埋め、階段のような畑にゴボウやニンジンが作られていた。太平ニンジン、太平ソバの名が長浜近郷に知られていたのは遠い昔のことではない。

 明治2年の戸籍には「坂田郡太平寺村  家15戸 坊2軒 人62人 男28人 女34人 田1町7反 畑131ヵ所 ソバ畑298ヵ所 林163ヵ所 牛7頭」とある。厳しい自然環境を克服して余すところなく耕地を広げ、ソバや野菜の栽培に取り組んでいたかを知る事ができる。伊吹山8合目までソバ畑があり、集落上部の傾斜地は夏になると白いソバの花に埋まったと古老は語る。長浜あたりからも山が白く見えたと言い伝えられている。 (伊吹山資料館資料より)

日本ソバ発祥の地・・・・伊吹ソバの歴史

 ソバは北方大陸から朝鮮半島を経て渡来したのは8世紀の頃と推定される。もっぱら備荒食糧として奈良・平安の二朝に歓種された。わが国最初の栽培地は近江の伊吹山下で、その後美濃・信濃・甲斐の山国に発達し、さらに関東・東北・北海道まで普及した。寛文8年(1668年)の伊吹山絵図によると、伊吹山8合目付近まで山畑の分布が記載されている。明治の物産誌によると、太平寺では耕地の半分がソバ畑で24石4斗5升を産出しており、近世に比し減少を報じている。本朝文選(1706年)によると、彦根藩士森川許六は「伊吹ソバ天下にかくれなければ、からみ大根また此山を極上と定む。酒々の風流物、誰か是を崇敬せぬものなし・・・・」と述べている。(からみ大根とは、この地域で取れる「伊吹大根」のこと)
(伊吹町史 通史編より抜粋)


山麓の斜面で農作業をしている女性。山の向うには琵琶湖が


 この写真は平成14年7月、住友大阪セメント工場さんのご協力を得て、ひぐさんが太平寺を見学された時に撮られた写真です。今は立ち入り禁止地区となっており、セメント工場の許可がないと入る事ができません。
 廃墟と仏像の多さに歴史を感じたそうです。


第二部 石灰産業と太平寺

さて、伊吹山の北西側が白く山肌が見えており、これはセメント工場が採石しているための仕業ではないか。セメント工場けしからんではないか、と思う向きもありましたが、歴史をひも解いてみると、江戸時代より白く崩落しており、かなり過去にさかのぼるようです。
伊吹町史 通史編より抜粋しています)

まず、享保19年(1734年)の『近江興地志略』には、

 伊吹より小泉の間、両山の麓みな平山なり。峠を見れば東のほうは伊吹の白砂利という手を立てたるが如き険阻なり。牧童高峰より刈り草にまたがり、姉川の岸頭まで一文字に下る瞬の間なり。この白石を焼きて石灰となす。小泉の百姓運上を奉りて諸国に出す。真の石灰はこの山より出づるなり。石灰釜2口あり。常に一片の煙半天にそびえる。

とあります。小泉村は太平寺村の下手にあり、『真の石灰』と表現されて、優れて良質であったことが明白に書かれています。


では石灰を何に使っていたのでしょうか? 江戸初期の稲生若水(1667〜1717年)が編纂した『庶物類纂』によると、石灰製造方法について、中国の書物を使って、その概略を書いています。

 石灰とは、白石を焼きて白灰を作り、既にやむ。積みて地に着け、日を経てすべて冷やし雨に遇し水洗に及べば、すあわち更に燃え、煙えん起こる。石灰はもって鉄器に蔵すべし。(中略)風化、水化の両種あり。風化は取り鍛え終わり、石を風中に置きて自ら鮮し。これ力ありとなす。水化とは、水をもってこれを沃すれば、すなわち熱蒸して、鮮力差劣る。

と記しています。風化したものは生石灰、水化とは消石灰のことであり、消石灰はシックイ塗り、大津塗りの材料として、セメントのなかった時代に火山灰や粘土と混ぜて唯一の水硬性セメント材料として用いられました。この時代には、さらに、殺菌作用があるため薬用にも利用されたことが書かれているし、中国では古代より活用されてきたことが分かります。

 近江の石灰に関して、近世文献上では正徳3年(1713年)『和漢三才図絵』第61雑石類に始めて登場します。

 石灰(中略)按ずるに、石灰江州伊吹小泉太平寺村等に近き山に処多くこれを出す。越前、大和、美作、備後及び武州八王子処々皆これを焼き出す。

として、全国の産地と共に近江産の石灰を大きく紹介しています。


  
伊吹小学校から望遠で採石場を望む(平成14年9月)

第三部 円空と太平寺


十一面観音像



修験の霊場であった平等岩

 年若い一人の修行者が伊吹山に籠り、8合目にそびえたつ平等岩で修行に励んだのは寛文初年(1661年)のことです。
 日本七高山の一に数えられて
薬師悔過(けか)の行法が行われ、後には伊吹山護国寺と称されて修験の道場として勢力を誇っていた伊吹山寺も建武以来(1334年)打ち続く戦乱の中でおよその坊舎も焼け落ちていたものと思われます。
 
太平寺でわずかに山寺の法灯を守っていたのは中之坊、円蔵坊、福寿坊の三寺でした。円空は太平寺の塔頭中之坊の身を寄せたと思われます。後に寛文6年(1666年)北海道に渡り、洞爺湖中之島に刻んだ観音像には「江州伊吹山平等岩僧内」と銘を残しているのです。12万体の造仏悲願を立てた円空は施薬乞食、造仏遊行の生涯を送り、元禄2年(1689年)円空は再び太平寺に足を留め、桜の木を伐って十一面観音像を刻みます。像高180.5cm一本造り、円空の晩年58歳の作です。6000体を越えるといわれる円空仏のうち、特に大作を誇っていることで知られています。

 円空の施薬・遊行とは何を意味するのでしょうか。修験の行者であっ円空の常に携えたものは薬師・観音の法であり、豊かな薬草の知識であったに違いないと思われます。薬師は現世利益の仏です。人間の最大の病は心の病である。「心の病は大自然を楽しむこと、大自然と一つに解け合う事によって療すことができる」 それが悟りの世界とでもいうものでしょうか? 貧しい農民や子供たち、しいたげられた人々を尋ね歩き、ある時はそこに住みつきました。こうして円空は行脚の生涯を終わるのです。円空はまこと伊吹百草の心を悟り、これを人々に施して歩いた人でした。

 円空作十一面観音像は山麓春照の観音堂に祀られています。円空仏特有のほほえみを湛えた童女のような温顔、わずかに腰をひねって腹部を異常に膨らませています。衣装はあたかも魚の鱗を連想させます。7歳の時洪水に流されながら暫く彼を岸に押し上げ、自らは濁流に呑まれていった母、円空は生涯母の残していった最期の微笑を追い続けていたのではなかったか。お腹の膨らみも、魚鱗を思わせる衣装もすべてこれを思うときうなずくことができるように思います。

(伊吹町史 文化・民俗編 執筆責任者 福永円澄先生 より抜粋)

写真は、梅原義夫さんの転載許可を得て載せています。


 伊吹山では仁明天皇の時代(838〜849年)に「一精舎」が建てられ、薬師念仏が行われたと「三代実録元慶2年(878年)2月13日条」にあり、つづいて「仁寿年中(851〜854年)沙門三修 登到此山 即是七高山之其一也 観其形勢 四面斗絶 人跡希至」とあり、三修は終生山を下りず、伊吹山寺(観音寺、弥高寺、太平寺、長尾寺)を開き、やがて護国寺に列せられ、定額寺に指定される。四寺もそれぞれ分立し、護国寺を称した。三修は当山の修験者の指導的な存在であった。

 薬師念仏が行われた理由や目的は記載されていないが、山林修行者にとって山野の薬草は「験力」や「霊力」を発揮する為には重要なものであっただけに、薬草との関係が考えられる。

 平安時代、典薬寮に全国から収納された薬草は近江の国が73種と最も多く、次いで美濃国から62種類納められていることから、両国にまたがる伊吹山には、薬草が古代から自生していた様子がうかがえる。

 中世の伊吹山は、修験道においては大乗峰と呼ばれ「近江輿地志略」には「此山女人結界 この処まで村の婦女登るといえども是より嶺に上る事叶わず」とあり、六合目以上は女人禁制の山であった。山中の行導岩(平等岩)・阿弥陀磯・七高山・常動岩などの行場があり、なかでも行導岩(平等岩)での禅定行導は有名で、三修もここでの修行を終え七高山阿闍梨となる。これらの行場には、峰入り山伏を指導する先達山伏が各寺々に下り、その1人に時代は下がるが円空がいた。円空は若き日伊吹山に憧れ、太平寺中之坊に身を寄せ山中抖そうに明け暮れ行導岩(平等岩)で禅定行導を満願、誇りある平等岩僧の称号を与えられ、山を下り、己の生涯をかけて歩むべき道造仏行脚の第一歩を東北、北海道に求めるのであった。

 伊吹山での修行を裏付ける円空仏が北海道虻田郡洞爺湖観音島の観音堂に祈られている。(現在有珠町善光寺保管)
この像は50cmばかりの観音像であるが、無残にも焼けただれた跡が像のいたる所にあり、それだけに微笑をかみしめたようなお顔の相が痛々しい。像の背面には

うすおくのいん小島 江州伊吹山平等岩僧内 寛文6年丙午7月28日 始山登 円空(花押)

と、円空仏唯一体の貴重な刻銘のある像である。伊吹山平等僧とは平等岩での禅行導を満願した者だけに与えられる称号であるだけに誇り高いものであり、神聖なものであった。故に渡道第一作に敢えて己が所属名を刻み残したと思える。この一事をみてもいかに平等岩での禅行導が、円空の心の中を大きく占有していたのかがわかる。

晩年58歳という老躯を駆りあてての再度の伊吹山訪問の動機がこのあたりにあるのではないだろうか。そして180cmもの巨像の十一面観音を一気呵成に彫り上げ、誇るかのように、

四日木切 五日加持 六日作 七日開眼  元禄二己巳年三月初七日  円空沙門 花押

の墨書銘を残すのであった。     (伊吹山太平寺円空仏保存会顧問  梅原義夫氏)


円空の生涯について『洞戸村の円空』(洞戸村教育委員会発行)では、次のように記している。

 円空は寛永9年(1632年)に現在の岐阜県で生まれた。また円空が法の道に入ったのは寛文3年(1663年) 32歳の時と推定されている(上述した福永先生の説とは2年遅くなっている)。

 円空は伊吹山で修行を終え、薬草の知識を習得するなど修験者として衆生救済に自信を持って旅に出たのであろう(寛文6年)。だが、北海道で目にしたものは、和人に搾取されるアイヌ人の姿であり、弱いものは強いものから奪われるということが、ここでは更に過酷に行われる様子であった。虐げながらもなおも敬虔に神を敬うアイヌの姿は、彼に強い衝撃を与えたことであろう。そして自分の布教の対象となるのは、自分を守るすべとて知らぬ貧しい人々なのだと意識し、円空は彼らのために祈り仏像を作ったのではないだろうか。

 寛文9年(1669年)、明国から亡命して尾張藩主の知遇を得ていた張振甫が薬師堂を再建した。この時円空は東北からこの地方に戻ってきており、日光、月光、十二神将等を造仏して安置した。これらの像は円空仏のなかでも作風が異なっている。怪奇な表情をしたものがあり、体の部分に具利形模様がデザインされ彫られているものがある。これはアイヌのイメージが重なっているのではないだろうか。

 寛文11年(1671年)、奈良法隆寺の巡堯春塘から「法相中宗血脈」を授けられた。円空はこれを得る事を切望したらしい。やはり伊吹山平等岩修行僧という肩書きだけでは、幕府による宗教統制に縛られた現実の中では思うように任せないことが多く、その不満を解消するべくより根源的な進行へと進んでいったのである。円空は新しい肩書きを得てからも今までと何ら変わることなくその造仏活動を続けていった。

 延宝3年(1675年)には奈良県の大峯山に入り、厳しい修行を積んでいる。この修行で験力も高まり修験者としての自身も深まった。その充実ぶりは竜泉寺(名古屋市)や荒子観音寺の諸像に示される。その後関東を遊行し、人が顧みなかった木の端までにも仏性をみつけ、そこに仏を具現していく。そこには、裕福な人々にだけ仏の恵みがあるのでなく、価値がないと思われたものにも価値がある。つまり底辺に生きる者にもその存在価値がある事を示しているのである。

 元禄2年(1689年)、滋賀県坂田郡伊吹町にある太平寺で十一面観音を造顕している。これには次のような背銘が記されている。
  四日木切 五日加持 六日作 七日開眼  元禄二己巳年三月初七日  円空沙門 花押
これを見ると、1日目に木を切り、2日目には祈祷をし、3日目で仏像を完成させて、4日目に開眼供養を行ったとしている。1m80cmを越える大きな像にしては驚くべき早さである。

 その5ヵ月後、大津市園城寺の尊栄大僧正から「授決集最秘師資相承血脈」を受けると共に、自坊である関市弥勒寺を園城寺霊鷲院兼日光院の末寺に加えられている。元禄8年(1695年)、享年64歳にして入定した。