賤ヶ岳合戦に突入

1. 柴田勝家出陣

しばたかついえしゅつじん

 勝家は越前の雪の中で、今日も降り続く重苦しい雪空を幾度となく眺めていると、伊勢よりの使者が雪にまみれ、転げ込むようにたどりついた。

 羽柴筑前殿7万の大軍を持って三方より伊勢に攻め入りました。既に亀山城も落ち、滝川殿苦戦にござります。

 勝家は忌々しげに、「うーん、筑前め」とうなったが、冬の間は、いかなる事があっても動くでないと、自ら申し出てきた滝川までが勝手に動き出すとはと苦りきっていたが、その奥底には、秀吉の陰謀を見抜くことができなかった自分のふがいなさが悔やまれてならないのであった。自分に織田家の将来をかけて嫁いできてくれたお市に対しても、強い責任感が我が身を強く締め付けるのであった。このままじっと雪解けを待ち、秀吉が越前に攻め入った時江越の国境で戦うが利か、雪を侵してでも湖北に出て、信孝や滝川と共同戦線を張るが利か、いずれかを選ばねばならない。勝家は眠ることもできず、火の気のない膚も凍りつくかと思われる寒い天主に一人端座して瞑想していた。秀吉から今まで主君のご子息として奉つまられていた信孝が、その秀吉から生母や妹までを人質に取られ蟄居の身となっている無念さを思い、また清洲会議以来あれほど堅く盟約を結んでいた滝川一益が秀吉の大軍に包囲されているのを思うとき、これら武将を見殺しにしてよいであろうかと思うと、もうじっとして入られなかった。

 夜の明けるのを待って配下武将達に、各自領内より人夫を出し、人馬が通り得るだけの道を切り開くよう指示させた。それはまだ雪の降り続く2月の下旬であった。僅かに通行できると、勝家は先ず、最も信頼できる甥の佐久間盛政を、3月3日8千5百の加賀兵と共に北の庄を出発させた。その翌3月4日には勝家が、前田利家以下2万の能登、越前兵を率いて、北の庄を出発した。3月4日といっても、これは旧暦であるので、現在の4月に近かった。けれども峠の雪はまだ厚い壁となって、勝家の兵を一歩も近づけなかった。勝家は仕方なく、木ノ芽峠を迂回して敦賀に出るより他に道はなかった。しかし木ノ芽峠は雪中とはいえ、人々の通行も多かったので、人の通る道は開いていた。そこを大部隊が通るのであるから、先発隊は少し苦労があったものの、後続部隊は比較的楽に峠を越え、佐久間盛政の率いる加賀の先発隊は遮二無二柳ヶ瀬にたどり着いた。後続部隊も続々と柳ヶ瀬に入り、3月12日には予め予定していた地に陣地の構築にかかった。さすが3月も半ばに入ると湖北には、春の兆しで日差しも長くなり、山の雪も急速に解け一面に地肌を表していた。


前田利家


佐久間盛政


内中尾山

 築城に先立ち、8日には盛政一部の者を使わし、下余呉、坂口方面の民家を焼いた。続いて勝家は到着すると直ちに柴田勝政に命じ、木之本から美濃街道を春照の宿まで、北国街道は長浜付近まで沿道の民家に手当たりしだい火を放たせた。これら部落の中には勝政の兵が去った後、直ちに消火に努め一部を焼いただけの部落もあったが、大部分の部落は、小谷攻めの時と同様に灰燼に帰し、平和の中に数年を過ごした湖北の人達は再び戦場となる恐怖に戦いていた。更に秀吉が築かせた天神山の二陣をしたから鉄砲で攻撃して威嚇するとそのまま引退し、後は決められた位置に各武将が陣地構築を急いだ。しかし翌日には佐久間盛政、徳山秀現(則秀)連署の放火の禁制が加田村に出ている。

 柴田勝家は本陣を柳ヶ瀬山の上の内中尾嶺の上に置いた。柳ヶ瀬山は山頂が三ヶ所の嶺に分かれ、いずれも東西は急斜面になっているが、山頂は広々とした平地になっている。北側を北中尾山、南側を南中尾山と呼び真中を内中尾山(439m)と呼んでいる。この山は古くは柳ヶ瀬氏も城を構えたことのある地で、椿井峠から北国街道を経て賤ヶ岳までを一望に望み柳ヶ瀬から敦賀への道、椿井峠を経て越前に達する道を扼する要所である。ここから南西に延びる尾根の最高峰行市山(660m)は京極、浅井時代、東野行一が城を構えた所と言われているが、ここに佐久間盛政が陣を構えた。ここからはその後に秀吉が砦を築いた、賤ヶ岳をはじめ大岩山、岩崎山、神明山、堂木山を眼下に望み、木之本から琵琶湖、塩津路まで、180度の前方を一望にすることができる。山頂から小谷村にかけて尾根が次第に降りている。行市山頂から約1km程下に寺山(444m)がある。ここは淳和天皇の天長8年(831年)に恵心僧都によって開かれたと伝えられる天台宗の別所山万福寺のあった所で、当時は50石の御朱印地となり、七堂伽藍を備え隆盛を誇っていたが、信長の仏難にあい、中之郷の大寺などと共に消失した。よってここを別所山と呼んだり俗称寺山などといわれている。ここには前田利家、利長父子が陣を築いた。更に尾根を下に降りると栃谷山(368m)ここに徳山則秀(秀現)が陣を置き、更に下に降りた中谷山には原房親が陣を築いた。栃谷山と栃谷を隔てて北方に林谷山があるが、ここには拝郷五左衛門と金森長近が陣を築いた。これらの砦を結ぶために内中尾山から行市山、行市山から別所山、栃谷山、中谷山、林谷山へかけ尾根に2間幅(約3.6m)に木を伐り払い連絡路を切り開き、どの砦が攻撃されても直ぐに他の砦から応援に駆けつけられるようにして、永陣の構えを築いたのであった。


 美濃にあって滝川一益を攻めていた秀吉は、柴田勝家湖北に入ったとの報を聞くと、もはや滝川一益などにかまってはいられなかった。秀吉にとって最大の強敵は柴田勝家であった。滝川一益への備えとしては北畠信雄と蒲生氏郷を残し、あとの全兵を率いて一路湖北へと駆けもどった。15日佐和山城に入ると、すぐに16日には長浜城に入った。長浜城主柴田勝豊は秀吉に降伏以来、病は益々高進し、立ち上がることもできず床に伏せたままであった。秀吉はこれ以上戦場に勝豊を置くのは酷くに思えてならないので、

その方の体の様子では、これ以上ここに留るは無理かと思われる。命長らえばまた花実のつく時もござろう。今のうちにもう一度名医にかかり再起を期せられよ。

と懇々と諭し、側臣徳永寿昌をつけ、秀吉が仕立てた籠で、京都の名医曲直瀬道三の元に送り届けた。秀吉にとっても一応城主と認めた勝豊が居ない方が、今後は秀吉が城主として自由に支配できるので好都合であった。

 秀吉は長浜で兵を一番から14番隊までに編成して、順次柳ヶ瀬方面に進出させた。

一番  掘秀政、
二番  柴田伊賀守勝豊の家臣(山路正国、木下半右衛門、大鐘藤八郎)、
三番  木村小隼人重茲、堀尾茂助吉晴、
四番  前野勝右衛門尉長康、加藤作内光泰、浅野弥兵衛長政、一柳一助直末、
五番  生駒親正近世、黒田官兵衛孝高(小寺官兵衛)、明石与一、木下勘由左衛門尉利匡、大塩金右衛門尉正員、黒田甚六長基、山内猪右衛門一豊、
六番  三好孫七郎秀次、中村孫平治一氏、
七番  羽柴小市郎秀長、
八番  筒井順慶、
九番  赤松弥三郎広英、
十番  神子田半右衛門尉正治、
十一番 長岡与市郎忠興、高山右近長房、
十二番 羽柴御次丸秀勝、仙石権兵衛尉秀久、
十三番 中川清秀、
十四番 羽柴秀吉。

 秀吉にとっては、何が何でも負けられない一戦であった。平地戦では兵力に物を言わせ、秀吉の方が一歩長じていたが、山岳戦では勝家の方が一歩長じていた。勝家は隘路の山岳を十分に利用して、万全の構えをしていた。この構えは近代戦になってもよき参考とされ、旧陸軍等も研究の対象としていたという。山陰の至る所には鉄砲隊の陣が張られ、狭い谷間を攻め入る秀吉軍は格好の標的とされる。秀吉もその点十分に心得ており、国安の天神山から東野山にかけて、東西に兵を備え、勝家軍を山中まで誘き出さんとして、山に向かって一斉に鉄砲を撃たせて見たが、勝家のほうからは何の対応もなく、一兵も山を降りる者はなかった。秀吉軍が谷間に攻め入るのをじっと待っているようであった。

 秀吉は掘秀政を東側の東野山(483m)に登らせ、自らは文室山に登って敵陣を観望した。東野山は行市山に対し道路を隔て東側にそびえる山で、かつて東野豊前の守が城を築いた所で、行市山方面を正面から一望できる。文室山は文室の裏山で、ここからは行市方面を側方から一望できる。両山より勝家の陣地を眺めると、行市山から下に続く山々の傾きでは、土が掘り返され土塁が築かれ、砦を結ぶ道までが開かれているのを見て秀吉は驚いた。勝家は一気に戦って勝敗を決する積もりはなく、永陣の構えをしている事が明らかとなった。

 秀吉も急ぎ作戦を変更し、永陣の構えに切り換える必要があった。直ちにそれぞれの武将に陣地構築を命じると、他の武将は一時帰城し待機するように命じて兵を退いた。


内中尾山(玄蕃尾)城跡 見取り図


柴田勝家公


続く

ホームへ