7.佐久間盛政敗れる

さくまもりまさやぶれる

 戦いは余呉湖畔からどのように展開して行ったのであろうか。盛政権現坂まで本隊をいったん退いたが、秀吉の追撃が意外に早く、切通しから上の鳥打山にかけて本隊の退陣を援護していた勝政が危ういというので、再び兵を再編成して、拝郷五左衛門山路将監らを前に出した。拝郷五左衛門尾野呂浜付近で七本槍の面々を一手に引き受け戦っていたが、遂に討たれ、山路将監も清水谷で討たれる状態で、残る兵を率い盛政自身が討って出ようとした時、後方で、陣が崩れ始めた。今まで茂山にあって、堂木の敵を圧えていた前田利家、利長父子が兵を率い一気に塩津谷に降りはじめた

 前田利家の兵が退き始めたので、今まで湖畔の戦いを見下しながら前田利家の大軍が控えているので前に出られなかった、神明山、堂木山の敵も、利家塩津谷に退いて行ったので総攻撃に移ってきた。後方から攻められた盛政の兵は混乱した。いわゆる戦いで最も恐れる、後崩れの現象が起こり、利家の兵に混じって塩津方面へ雪崩の如く退き出した。盛政必至に「返せ、返せ」と叫んだが、もう聞こえなかった。塩津方面に逃げる者、池原方面に逃げる者ばかりで、残って戦う者は皆討たれていった。秀吉賤ヶ岳を降りると、湖畔を馬を走らせ、兵を二手に分け、山上の峰を集福坂にかけ、平地は東野方面にかけ敗残兵を追って進んだ。権現坂は足海越えというのが正しい名で、峠の上に蔵王権現堂があったので、俗に権現坂と言われ、戦前は余呉から塩津へ出る主要道で、現在でもこの山道が県道になっている。

 前田利家が戦場を離脱して塩津を経て退いたのを知ると、不破勝光も、金森長近も兵をまとめて、我れ勝ちに利家の後を追って、戦わずして逃げてしまった。

 秀吉が、敗残兵を追って、集福寺坂のあたりまで来ても、もう兵の影はなかった。柴田方の主な武将達も討死したのか逃げたのかも分からなかった。しかし狐塚(今市)にはまだ柴田勝家の本隊が残っている。これを討たねば勝った事にならない。秀吉は西の山手を進んでいた兵も、東の東野山(左弥山)の兵もすべて下に降ろし狐塚へと向かった。

 ここで前田利家、利長父子の行動であるが、これは人によって批判はまちまちである。これはあくまで柴田勝家に対する裏切り行為であると評する者、いや戦国時代の武将達が生き延びる常道であると評する者。その評は勝家びいきか秀吉びいきかその人その人の考え方によって異なる。無論利家勝家の配下ではない。この点は不破にせよ金森にせよにせよ皆同じである。信長勝家北の庄城主とした時、北陸平定のため勝家を助けるため、勝家の与力として領地を与え配置したものであった。信長死後も与力としての義務があるかどうかは何ともいえない。また利家秀吉とは幼い時からの親しい友人であった。吉から利家の所へ誘いが行っていたのは当然である。一説によると、この誘いに対し利家は、ここまできて家を裏切る事はできないと断ったという。それに対し秀吉は、それなら戦いがはじまったら、いずれにも味方せないでほしいと申し入れていたという。これは後世の人がこの場の状況に応じて考え出された説か誠に適切な説である。利家はいずれにも味方せず、戦わずして戦場を離脱していったのである。

どうして前田利家は退陣したか?

 利家5千の将兵が、6万の秀吉軍に飲み込まれては、全滅は免れない。とっさに利家は勝家を見捨てた。そして逃げた。「槍の又左」と謳われた利家が遁走したのである。

 利家の思考の柱は「前田家を守る」ことであった。四男でありながら前田家の当主となった利家としては、祖先に対しても、長男利久に対しても、前田家の家を存続させるのが使命だったのである。

(板津安彦著 「柴田勝家と前田利家」 日本医事新報 2002年7月6日号)

 利家秀吉とそれ程固い約束をして退いたのではないらしい。それは世渡り上手な利家であるから、ある程度は日和見的な所があったのであろうと思う。盛政中川清秀を討って元の陣に復帰していたら、利家も戦場放棄はしなかったであろうし、また利家が退かないで、後方を固めていたら盛政もこんな惨めな負け方はしなかったであろう。

 利家も簡単に退けたのではなかった。撤退する時、利家自身もかなり多くの犠牲を払っているし、また利長府中城に帰ってからも、秀吉の出方によっては一戦になるかも知れないので、戦いの準備をしていたのを見ると早くから、秀吉と通じ計画的に退いたのではなく、その時の咄嗟の思いつきで退いたようである。

 退くに当って、横山半喜長隆らに命じ、陣旗を並べて木に縛り、敵に前田の大軍が未だ残っているように見せかけたり、鬨(とき)の声をあげさせるなど随分苦心している。それでも、本隊が退くと、堂木木村重茲(小隼人)、蜂須賀家政らが攻め登ってきたので本隊を安全に退かせるため残った、小塚藤右衛、木村三蔵、富田与五郎等最後まで残って、本隊が無事に塩津浜まで退かせるために、神明山、堂木山砦から攻め登って敵を防いでいたが、遂に力尽きてこの場で討死している。

 横山半喜もまた敵の包囲に落ち、塩津谷へ退くことかなわず、敵の包囲を切り開いて山を降りたが、それは塩津谷ではなく、中之郷方面であった。ようやく東の山裾にたどり着いたが、そこに一軒の山寺があった。戦いを恐れて僧侶達は立ち退いたのであろうか人影はなかった。裏に廻って見ると美しい谷川の水が流れていた。この水でのどを潤すと、少し元気が出たので裏山に登って松の根元にどっかと腰を降ろし、見るともなく前方を見ると、今自分が降りて来た堂木山余呉湖畔を兵が駆け廻っているのが手に取るように見える。しかし傷口から流れ出る血のためか、体の力が次第に抜け眼前が朦朧となってゆくのを、どうすることもできなかった。これではいけないと気を取り戻すと、残る万身の力を込めて腹を切り、刃をのどに当てるとその上にかぶさるように倒れて死んでいった。
 戦い過ぎて、ゆがて帰ってきた寺僧達によって遺体は懇ろに葬られた。横山半喜はこの地で死んだが、その子長知は15歳で父と共に、前田利家茂山に陣取っていたが、利家に従い塩津谷に降り府中城に帰った。父半喜の功により、前田家八家老の一となり、長く栄えた。享保18年になって半喜六世の孫小野貴林はこの地に墓碑を建立し、半喜を葬った山寺、曹洞宗長谷山吉祥院を菩提寺とし、横山家の位牌を安置し以来今日まで供養が続けられている。

 かくて前田利家父子の戦場離脱により、佐久間盛政は完全に敗れ、敗残兵として柴田勝敏と共に賤ヶ岳を落ち延びる身となった



続く

ホームへ