4.大岩山の中川清秀討死

おおいわやまのなかがわきよひでうちじに

 秀吉柴田の兵が永陣の構えである事を知ると、3月19日には各所を巡見し、各要所に砦を築き、城普請を各々武将に命じたが、4月1日峰々の陣固めが終わると、大軍を狭い湖北に留め置くことはできず、頭分の侍の者少々と鉄砲の者を置き、総人数は銘々の領地へ引下がり、触れあり次第、直ちに打ち出すよう命じた。


中川清秀


余呉湖から見た大岩山

 4月8日には中川清秀も砦も一応できたので、中川平右衛門、熊田千助、古田佐助、森田彦一郎等銘々配下の人数を召し連れ、茨木へと引き取っていった。最初はすぐにも一戦が始まるような気配であったので、総勢3千ほどの兵が来ていたが、大部分が引き上げ、在番の兵は500〜600名であった。ここを盛政の大軍で攻撃されたのであるから、苦戦は当然で隣の砦岩崎山賤ヶ岳に救援を求めたが右の次第で、桑山重晴からは、

「大岩、岩崎両砦で隣の砦では防戦よろしからず、本城へつぼみあるべし、一所にて防がん」

との返事。また高山重友からも、

 「賤ヶ岳につぼむこと、最もよろしからん」

とて、取り付く島もない。清秀も無論この要害で大敵を防ぐことの困難さはよくわかるが、秀吉の指図によって築いた砦、一戦を交えずして退くは武士の本意にあらず、踏みとどまりて一戦を交える覚悟、各々方は御心次第になされよと、城を打って出て戦う決意をした。

 大岩山の砦よりは、もう菅杢太夫、池田専右衛門、田能村杢左衛門、大藪新八、村上太郎兵衛、野尻出助、桜井河内らが馳せ出し、両軍鉄砲隊は激しい撃ち合いをした。銃声しばしば小止みになると菅杢太夫が敵の中に一番槍を入れた。太田平八の槍がこれに続くと、両軍一斉に小競り合いとなり、盛政の兵を一応湖辺まで追い返したが、不破の兵が退くと、今度は新手の徳山則秀の兵が押し出してきた。中川方も、熊瀬莇助、松田孫三郎、田代太左衛門、奥彦太夫、同彦作、入江土佐、寺井弥次右衛門、高山総吉等入れ替り防戦に努めた。押し寄せる敵は次第に大岩山の包囲を縮めてきた。城内高所に立って敵の形成を見ていた中川清秀も手廻り300騎余を引きつれ敵陣に突いて出た。日は既に高く登り、清秀の黒糸威の鎧や、金の向立物は朝日にきらきらと輝いていた。

 山麓から湖辺までは乱戦となり決戦が続く、死を覚悟した清秀の形相物凄く、手当たり次第太刀を振るい切りまくる。佐久間盛政神部兵右衛門に命じ、湖辺を廻り裏手より砦の根小屋に火をかける事を命じた。

 盛政の新手軍は再び清秀の一団を城中まで追い返すと、しばし息をついた後、清秀は再び城外に出て斬りまくり盛政軍は、湖辺まで追い返される。盛政城より火の手が上がるを待てども、中々火の手上がらず、「敵は少数なるぞ、ものども続け」と声を限り将兵を励ましている時、ようやく城の裏手より火の手が上がった。またたく間にあたりは黒煙に包まれ、敵味方の見分けもつけ難くなってきた。

 城内の焼け落ちる炎を見て佐久間の兵、勇気百倍、次々と新手を繰り出すのに比し、清秀側には繰り出す新手もなく、次第に本丸近くまで追い詰められ、清秀本丸近くで最後まで防戦、野尻出助も従っていたが、先手はことごとく討死、清秀支配の名だたる射手熊田孫七、木戸口に立ち塞がり、寄せ来る敵を狙い撃ちにしていたが遂に矢種つき、大薙刀を振って討って出たがまもなく討死、熊田兵部も盛政めがけ突き進んだが忽ち敵の手にかかり討死する。清秀の弟中川淵之助、清秀の鎧の袖に取りつき

「もはや味方悉く討死、これ以上雑兵の手にかかるもどうかと思われる。ここは、某に任せ、本丸に入りて心静かに自害なされよ」

と無理に本丸の中に圧し入れ、

「われこそ中川瀬兵衛なるぞ、我と思わん者はこの槍を受けてみよ」

と、全面に突き進んできた騎馬武者を突き伏せると槍を捨て、今度は竹の節と名づけられた、3尺6寸の太刀を抜いて斬って出たが、忽ち槍ぶすまに妨げられている時、盛政軍の中から一人駆け抜けてきた騎馬武者、淵之助の前に進み出ると

 「瀬兵衛殿、いつまで殺生なされるか。我れこそは佐久間玄蕃の身内近藤無一なるぞ、尋常に勝負」

と二人は散々に戦ったが淵之助遂に組み伏せられ、無一すばやくその首を斬ると、刀の先に突き刺し、高く掲げて

 「近藤無一、敵将中川瀬兵衛を討ち取ったり」

と大音声で叫び、佐久間の軍からは、「わぁ〜」と鬨の声があがった。
これが後の世に、中川瀬兵衛を討ち取ったのは近藤無一と伝えられているが、実際は近藤無一が討ち取ったのは弟の中川淵之助で、中川瀬兵衛は、本丸に入り自害し果てたのである。

 中川清秀の侍医として、大岩山の陣には沖永玄哲なる者がいた。侍医といっても、軍医のような者で、清秀の身でなく、将兵の手当もしていた。しかし次から次へと傷つき倒れゆく将兵の手当はもはや限度を越え、手のつけようもないというのが実状であった。そこへ全身傷を負って、よろめきつつ陣内に清秀が入ってきた。玄哲は駈け寄り、手当をせんとしたが、清秀は玄哲の手をさえぎり、

 「もうよい。もうよい今更手当も駄目だ、それよりその方は武士ではない。一刻も早くこの場を逃れられよ」

とあえぎ、あえぎつぶやいた。玄哲はしばし清秀の言葉を疑った。

「殿、何を言われるか。今日まで殿と生死を共にしてきた身、一将兵まで討死を覚悟している今、自分一人が生き延びようとは思いません。武士ではなくても、覚悟はできております」

と、玄哲がきっぱり断ると、清秀は、

「いや違う、今われら全員が討死したら、誰が後を弔ってくれるか。そなたが生き延びるのはそなたの為ではない。われらの霊を弔ってもらうためだ。これは今日まで肌身離さず持っていた我が家の守り本尊だ。これを持って素早く山を降り、どこかの寺で、我らの霊を弔ってくれ」


と言われ、玄哲は、木之本地蔵院(浄信寺)を訪ね、住僧に依頼して中川清秀はじめ配下の将兵の霊を弔った。以来浄信寺は中川家の菩提寺として明治に至るまで中川家と深い係りを持つようになる。玄哲子孫は木之本浄信寺の隣に土地を与えられ住みついた。それが今日の岡氏であるという。岡の名字は、その後中川氏の子孫が豊後の岡城主となったので、その城名を苗字としたと岡家の当主は伝えている。

 清秀沖永玄哲が山を下りるのを見届けると、本丸で静かに自害した。年42歳、最後まで清秀に付き添い主君清秀を助けていた武将たちも悉く討死した。

 大岩山で討死した中川家配下の将兵達の数は明らかでないが、主な武将については、茨木の梅林寺、豊後岡の西光寺、木之本の浄信寺などに位牌が残っているが、それら位牌から武将たちの名を拾ってみると、

法名 浄光院殿行誉荘岳大居士 中川清秀の外に
 中川淵之助 熊田孫七資一 熊田兵部次矩 熊田三太夫資之 森本道徳 山岸監物重本 杉村久助正英 森権之助 鳥養四郎太夫 大田平八 菅杢伝兵衛重武 野尻出助重英 藤井半右衛門 田代太左衛門 奥彦太夫光英 奥彦作 奥孫兵衛 田能村杢左衛門 入江土佐 赤井弥次右衛門元定 高山総吉 桜井河内正利 野口新助 田島伝次右衛門 玄正亡知半
外に、台所人11人 仲間御小人 20人余 雑兵300人となっている。


 大岩山の悲報は、茨木城に留守役をしていた嫡子秀政の元へ知らされたが、秀吉の下知を待って出動すべく準備していた、予備隊一同を愕然とさせた。留守を預かっていた田近新次郎らは、中川家菩提寺の梅林寺住職是頓和尚を伴い大岩山に来て見れば、焼け落ちた城跡には、敵とも見方とも分からない遺骸がまだそのままになっていた。しかし中川清秀の遺体は、山麓の下余呉村土民達によって谷間に降ろされ、上に柴をかけて隠まい守られていた。一同は土民の助けを得て遺骸を火葬とし、また戦士達の遺骸は集めて大岩山上に埋葬し塔を立てて供養した。清秀の遺骨の一部は梅林寺に葬られた。清秀の遺骸を隠して守り、またその供養に協力した下余呉村の土民12名はその後秀吉から恩賞を受け、以後今日に至るまで中川講を組織し中川家の供養を続けている。

 嫡子秀政は11歳で織田信長の息女鶴姫と結婚しており、大岩山の悲報を受け取った時は16歳出会ったが、即刻1500人を率いて急ぎ近江に入ったが、もはやその時は賤ヶ岳の戦いは終わっていた。


中川清秀の墓


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