5.賤ヶ岳七本槍

しずたたけしちほんやり

大岩山を陥し入れた盛政は早速賤ヶ岳の城将桑山重晴に使者を出し降伏を勧告した。

「大岩山、岩崎山の砦は既に落ち、賤ヶ岳の砦はもはや包囲の中にあり、無用の戦いをやめてすぐに降伏せられよ」

というものであった。桑山重晴は、はじめ海津に陣する丹羽長秀の与力(助勢役)をしていたが、賤ヶ岳合戦には羽柴秀長の配下にあった。桑山重晴は、中川清秀の苦戦にも一兵の援けもせなかかった程で戦意なく、

「抵抗は至さないが、武士の面目もあり、日没まで待たれたい。必ず城を明け渡し退くべし。日の高いうちは空鉄砲にて討ちあいたし」

との返事であった。盛政賤ヶ岳はもはや包囲の中にあり急ぐこともあるまい。それに将兵も昨夜より一睡もせず疲れ果てている。無理をして攻め、この上犠牲を大きくするより、ゆっくり休み夜を待つが良策と考えた。それにもう一つ油断させたものは、秀吉の本隊が木之本になく岐阜にあるということであった。おそらく今頃は岐阜城の信孝を攻めかけたので簡単には引き返せないであろうと考えていた。


佐久間盛政は中川清秀を倒し、大岩山から退却しない。柴田勝家は、盛政にすぐ退却を命じるも応じず。

退陣せぬ佐久間盛政・・・勝家の悲運

 一方狐塚(今市)にあって、大岩山の戦況を見ていた柴田勝家は、午後に入るともう我慢ができなくなり、使者を送り直に引き上げるよう伝えた。しかし盛政からは、「ご案じなさらず盛政にお任せください」との返事で、一向に引き上げる様子もない。勝家は再度、安井左太夫家清を遣わし、敵中深入の危険を説かせ一刻も早く、元の陣地に復帰するよう命じた。しかし盛政には、堂木山賤ヶ岳の敵はもはや眼中になかった。堂木、神明をはじめ中之郷に陣する敵の大部分は柴田勝家の配下の者で、山路正国の説によれば、秀吉に対する忠誠心はなく、機会あればいつでも柴田方に寝返りする状況にあると言い、賤ヶ岳桑山は日が暮れるのを待って城を開け渡すという。今柴田方にとっても最も必要なことは勝家の前進あるのみで、本陣を賤ヶ岳に移すことができれば、江北平野は眼下に開け、秀吉方の兵の動きは一挙一動が手に取るように見え、秀吉は手も足も出なくなるだろうとの考えで、逆に勝家に対し、

「もはや勝敗は決している。殿、自らの出陣をお願いする」

これに対して勝家は、大岩山攻撃のはじまる以前の4月5日東野山堀久太郎秀政を攻めたことがある。そのときの状況を秀政秀吉に報告した下書きが残っている。それによると、

今朝卯の刻より敵の惣人数押出し、柳ヶ瀬川原口に13段、山上に5段に構え、当佐弥山城(東野山)へ取寄せ柴田と相見え、自身金の五幣をふり責め懸りましたので、拙者も若輩ながら御配下に召し加えられた折でもあり、世間体もあり、自分に似合わず、白い釆を振って下知仕益した。鉄砲どもを入れ替え入れ替え撃たせ敵の手負い数百人ありました故、1〜2町引き退きました。いよいよ手前の儀は固く守るよう申し付けました。お気遣いなさらないよう尚相変わったことがありましたら追々申し上げます。
  己刻 卯月5日   久太郎

また別の書には、

 先書申上げました如く、敵動き出したといえども、諸口鉄砲を持って、散々に打ち立てたので、手負死人を出し只今未の刻に面目なき体にて柴田のもの柳ヶ瀬に逃げました。その他玄蕃始め先手の者共も本陣まで引き退きました。柴田の者不覚の手ちがい、下々まで物笑いです。尚変わった事ありましたら追って言上致します。 恐惶
尚、長浜衆(勝豊の配下の者)が守る砦について、御不審の様に仰下され、半左衛門尉(神子田正治) 小川祐忠などは相談して昨晩木下将監外籠申しました。是又お気遣いなさらないように。以上
 未刻 卯月5日

 柴田退治記には、この辺のことを木村重茲を本丸に入れ、大鐘藤八、木下半右衛門、山路正国等を外構に出したように記している。

 この戦いで柴田勝家堀秀政を過少評価して、前に出ることの危険な事を十分知っているし、それに秀吉は常識では考えられない方法で迅速に引き返してくることは本能寺の変の時に苦杯を飲まされているので、盛政の安易な考えにいらいらしていた。

 勝家が案じたように、秀吉は4月17日安土にいた。神戸信孝の人質をすべて斬り殺すと岐阜に向かって兵を進めた。ところが大垣まで来ると、大雨洪水となり揖斐川は氾濫し、どの渡しも川止めになり兵を渡すことができないので仕方なく大垣に留まっていた。しかしこの雨こそ秀吉にとって勝利の雨というか、幸運の雨であった。


現在の揖斐川

秀吉の大返し・・・52kmを5時間で

 秀吉のもとに大岩山陥ち中川清秀将兵全員討死の報がもたらされたのは20日の昼ごろであった。秀吉盛政賤ヶ岳の北面の蛭谷、清水谷、庭戸浜に陣取り野営の準備に入らんとしていると聞き、これでは一刻も早く、木之本に引き返さねばと思った。これは付近に残る将兵達から裏切りが出ることは確実で、それまでに手を打つ必要があった。これに対し諸の書は、昼食中の秀吉は箸を落として、「われ勝ったり」と叫んだなどと記しているが、秀吉の気持ちはもっと深刻なものであったのであろう。迂闊に木之本を空けた油断から勝家に先を越された事を悔い、これが挽回を真剣に考えていた。佐久間盛政のすぐれた戦略も、今までの経験から十分に知り抜いていたので、一歩誤れば命取りになると思っていた。そのためには、どうすれば今日中に木之本に着けるかに思いを馳せていた。若し今日中に着けば道は開けるが、明日になれば必ず苦戦となる事を承知していたのである。

 この日は秀吉にとって、もう一つ嫌な報せがあった。4月10日京都の名医曲直瀬法眼や、本法寺等に依頼して京都に上洛させた長浜城主柴田勝豊が本日20日東福寺に於いて死亡したとの報せであった。勝豊秀吉勝家に無理に要請して城主としたものであり、それを越前の雪を見てから、病に苦しむ勝豊を騙し討ちのような格好で降伏させたのであるから、やはり心が痛むのであった。それだけに、京都の名医にかかるなどして何とか助けてやりたいと手を尽くしていたのである。秀吉のやり方が勝豊の死を早めたのも事実であろう。それだけに勝豊の死が秀吉にとっては哀れでいとおしかった。

 秀吉黒田官兵衛はじめ諸将を集め、木之本まで直行のための軍議を開いた。そして決まった事を諸将に命じ速時実行に移させたのであった。先ず将兵の中から才のきく体力の続く者50名が選び出された。50名は2班に分けられ、1班20名は先駆けし、藤川以北の沿道の百姓達に松明を1本ないし3本造らせ、沿道に並べ置き、夜になったら一斉に火をつけ、道を照らさせるようにせよと命じて、すぐに先発させた。次に残り30名は長浜領内の百姓達に、米1升、まめ1升宛を煮て、米は握り飯として沿道に台をして並べ置くようさせよ。それぞれの百姓達には必ずそれに数倍する恩賞をとらせるであろうと命じて、これも早駆けで出発させた。

 戦いは攻めるよりも退く方が困難であるが、秀吉は幸運にもまだ信孝と本格的な戦いに入っていなかったので、そのまま退くことができた。だだ川の水が引いた時、信孝後を追ってくるのをくい止めるため堀尾吉晴を残した。しかし堀尾吉晴は大垣に残されたことが大変不満で、どうしても合戦に参加したく、氏家行広に任せて、本隊出発後に大垣を出て後木之本で本隊に合して賤ヶ岳の合戦に参加した。

 秀吉が各々の武将に命を下し、数名の騎馬の部下を従え大垣を出たのが午後2時であり、ようやく主力本隊である1万5千が大垣を出発したのが午後4時を過ぎていた。こうして大部隊の移動は、どのように急いでも相当の時間が必要なことがわかる。各部隊が大垣を出発すると、あとはひたすらに走り続けた。大垣と木之本の間は13里(約52km)あるこれを5時間で木之本に着いた。藤川を過ぎる頃から日も山の端にかかり、あたりは淡す暗くなってきたが、この頃から沿道には一斉に松明がたかれ道路は明か明かと照らし出された。また沿道いたる所に台が置かれ、握り飯や糧秣の豆、手桶には水が用意され、兵達は手づかみでこれを頬張りつつ走り続けた。

 木之本近くに来ると日頃から秀吉に目をかけられている称名寺の住職がかけつけ馬上村(まけむら)秀吉、馬を乗り継ぐため一休みせし時茶菓の接待をしたという。その時秀吉が、「ここは何村か」との問いに、マケ村と言っては秀吉に不吉感を抱かせてはと思い住職は咄嗟に、「北マケ村に御座ります」と言うと、「何、北負けとな」と言って秀吉さも心地よげに「あっはっは」と大声を上げて笑ったという。その所を今北馬上と呼んでいると、余呉物語は伝えている。

 秀吉木之本に着くと地蔵前(浄信寺)の広庭に陣取り本隊の到着を待っていた。この頃地蔵前には各村々の役人達は食糧を作り、次から次へと運んでいた。これも秀吉がかって長浜城主であった頃の善政の表れであろうか。

 このことを早くから予期していた勝家は真っ赤になって怒り、「盛政め、わしに皺腹を切らせる気か」と地団駄踏んで悔しがったが、勝家の思いとは全く異なっている盛政は、この好機になぜ勝家が前進せないのか不審であった。勝家は最後に実子柴田権六勝敏を使者として、

「これが最後の使者だ。その方命に反くなら、この勝家自らが指揮をとりに行く」

 勝敏勝家が、柴田家の継承者と最も大切にしていた実の子で年はまだ15歳であった。僅か15歳とはいえ、さすが勝家の子、誰にもひけをとらないひと角の武将であった。勝敏が持っていた「青江」という名刀は別名莞爾(かんじ)と言われ、この刀で人を斬ると竹を割る如くで、斬られた者はこれを知らず、ふり顧みて、行く事、7、8歩で二つとなって倒れたといわれている。勝敏を使者として出すことは勝家自身が出かけるも同じようなものであった。しかし勝敏賤ヶ岳下の盛政の陣に達する前に、秀吉はもう木之本に入っていた。賤ヶ岳南面に出した見張りの者から、

「大事で御座ります。木之本から見渡す限り大垣への道は松明で埋まっています。敵の先鋒は木之本に入ったと思われます」

という注進が盛政の元に伝えられた。盛政はわが耳を疑うごとく。

「そのようなことがあろう筈がない。その方一度調べてきてはもらえまいか」

と側にいた、徳山秀則を見た。秀則はすぐに茶臼山から観音坂を駆け下り、余呉川堤に立ってみると、正しく松明の明かりはあたりを輝かし、木之本の方は人馬のいななきや叫び声が、あたりを埋めていた。もはや秀吉の本隊が木之本に入っていることは間違いなかった。秀吉の本隊は大垣、木之本間13里をわずか5時間で駆けてきたのである。時速10.5kmである。1万5千の大軍が時速10.5kmで移動することは神業にも等しかった。

 秀則は再びもとの道を駆け登り、盛政に事の次第を報告すると、盛政も愕然として、初めて勝家の言ったことが理解できたが、それはあまりにも遅きに過ぎた。つい先ほど使者に来た勝敏にも、すまないという気持ちでただ頭を垂れていた。

「秀吉の軍とて疲れているので、夜の明けるまでは攻めてくることはあるまい。夜の明けるまでに、ここを退かねば、秀吉の大軍を背に受けての戦となりましょう。」

という諸将にせきたてられて、総兵に退却の命を出したのが、4月20日の午後の11時であった。あたりは真っ暗闇である。「明日の陽が昇るまでに戦いは休みだ。安心してゆっくり休め」という盛政の命で、兵達は散々伍々、あちこちに分かれ、場所を選び眠りに入ったので、丁度深い眠りに入った所である。前夜からの不眠と、日中の戦いの疲れで、どこに眠っているのかも分からなければ、叩き起こしても死人のように眠っているので起きようとせず、あまり大声でわめけば、賤ヶ岳山頂の敵にすきを見抜かれ攻め寄られるかも分からない。

 この頃賤ヶ岳山頂の桑山重晴らは日の暮れるのを待って、城を開け山を降りてしまった。しかし夜明頃よりの賤ヶ岳方面の激しい鉄砲の音を聞いた湖畔を見張りのため山梨付近に来ていた丹羽長秀の部下が、急ぎ海津に帰りこのことを長秀に伝えたので、長秀はとりあえず1千の兵を率い、六艘の兵舟で山梨に着くとすぐに賤ヶ岳に向かった。賤ヶ岳を降りた桑山重晴羽柴秀長に励まされ、再び賤ヶ岳に引き返してきたので丹羽長秀の兵と合流して力を得てきた。

 一方秀吉木之本で兵を休めていたが、盛政が退き始めたと聞くと、退きぎわを討つべく、総攻撃の命を出したのが21日の午前2時であった。秀吉は前もって連絡してあった美濃部勘左衛門を案内にして黒田観音坂を登ってきた。ここから猿か馬場に出て、しばらく戦況を観戦していた。

逃げる盛政、追う秀吉

 盛政兵を叱咤して退かせども、暗闇の中にて退却思うように進まず、生い茂る笹の露に足を滑らせては転び、起き上がっては又転ぶ有様である。兵が全部退かない限り盛政も陣払いができなかった。夜明間近になって、月が山の端に昇りはじめ、わずかの月明かりで兵隊も湖畔に降りることができたので、いよいよ陣払いをして、退く頃は夜が明けていた。黒田より我れ勝ちに登ってきた秀吉軍も一気に山を降り、殿を勤めていた、原彦右衛門や、拝郷五左衛門(日本戦史には安井家清となっており、いずれとも定め難い)の兵と、秀吉の先鋒は尾野呂浜付近で接触、激しい戦いとなった。しかし盛政の殿軍は巧妙な作戦で秀吉の兵を寄せ付けなかった。原彦右衛門が戦っているうちに拝郷五左衛門の兵は退き下がり、樹影に鉄砲隊を構えおき、の兵は一斉に退くと、わっとばかり追ってきた秀吉の兵は鉄砲隊の標的となりばたばたと倒れた。そこをすかさず拝郷五左衛門討って出て散々に斬りまくり、付きまくり、またさっと退く、その間に後の方で鉄砲隊が陣を構え待っていて、追ってきた秀吉の兵は討たれ混乱した所を原彦右衛門討ってでるという状態で、後には秀吉の兵は先に立って討って出ようとする者がなくなってしまった。秀吉は山上からこれを観戦し、佐久間盛政の鮮やかな戦法に、敵ながら天晴れと感心していたが、これ以上追っても無駄と考え、次に退くのは盛政兵を援護している、飯ノ浦の切通し上に陣している、柴田勝政と見た。そのため兵をその方へ集中した。


佐久間盛政退却を始めるやいなや秀吉軍総攻撃をかける。佐久間の退陣すばらしく、秀吉は柴田勝政の賤ヶ岳に目標を移す。


鬼の武将ともよばれた佐久間盛政(合戦絵巻より)

 秀吉はじめ本隊に先がけ黒田観音坂を騎馬8人歩行の者5人馬印持2人を従え登ってくると、下から一柳直末直盛兄弟追いつき「敵間近なれば先手の者は馬を降りるがよろしからんがと存じます」と申上げる秀吉「それならその方達先に行け」と言われて一柳直末、直盛、大谷吉継、大島茂兵衛光政、一柳次郎兵衛、稲葉清六、福島与吉、奥村半平、崎田源太郎、加藤光泰、平野長重、片桐貞隆、福島市松、加藤備中14人の者槍や太刀を振り回し、柴田勝政らの陣する掘切を攻めんとすると、待ち構えていた勝政の弓の者50余人、前に出て、ここは攻めまいと雨のごとくに矢を打ちかける。14人の者前に進めず甲を傾け矢を避けているより外ない。一柳直盛の左に大島茂兵衛、右に稲葉清六、後5間程引下がり崎田源太郎その外旗本12人も前に進めず、矢疵を負う者もあり、大島茂兵は甲の上に矢二筋、稲葉清六も同じく3筋、崎田源太郎は股を射たれ引退る。14人のうち弓を持っているのは大島茂兵衛一人のみで、矢種惜しまず散々に射て敵とわたりあう。そのうち敵も矢種尽きたのであろう。あまり射ってこなくなったので、切先揃えて堀切の上まで敵を追い上げると敵再び追い返してくる。中でも徳山五兵衛秀則槍をもって突かかる。大島茂兵衛先に受けた矢疵と更に小手の番を射たれ引退る。奥村半平は槍を突折られ太刀を抜いて戦ったが遂に討死する。これら14人、七本槍に先駆けて戦ったのでこれを賤ヶ岳14人の戦功者としてその名をとどめている。14人戦功は七本槍に先駆けて功を立てたのである。世にこれを賤ヶ岳14人衆という。後世の人は七本槍だけが賤ヶ岳の功労者の如くはやし立てるので、他の多くの戦功者がその影に隠れてしまった。福島正則は七本槍の中でも別格の5千石の恩賞を受けているのであるが、他の七本槍の者とは別にこの場所で戦っていたので七本槍から除き、石川兵助か、桜井佐吉を入れるべきであると説く人もある。

 そのうちに秀吉の主力が、ぞくぞくと賤ヶ岳に登ってきたので、戦いはいよいよ激しくなってきた。日はもう高く昇り、戦場は朝靄たちこめる余呉湖畔へと移っていった。
 殿をつとめていた原彦次郎拝郷五左衛門(安井左近の説もある)の戦いぶりは実に鮮やかであったが、その時、槍をもって特に目覚しい働きをした勇士があった。それは青木勘七郎法斉、原勘兵衛可永、長井五郎右衛門、豊島猪兵衛、鷲見源次郎、鷲見九蔵、毛屋新内、などで殿が退いたと思って、追って来た秀吉軍は、待ち構えた鉄砲隊で先頭の者がばたばた倒れ、ひるむすきに突いて出ては6人7人と突き倒して行く中でも、青木法斉は一番年若きため血気にはやり逃げる敵を更に数人突いてはさっと退いていく。この殿の退き方を抜槍といい珍しい退き方に秀吉はじめ、賤ヶ岳の上から見ていた者皆目を見張ったという。ために秀吉軍、一番に出ようとする者がない。

 秀吉これ以上、盛政を追っても無駄な事を知ると、兵を引き、次は賤ヶ岳飯ノ浦堀切を堺に相対する山上より山肌に陣を取り、盛政本隊の退くを援護していた柴田勝政の陣に攻撃の目標を変え兵を移動して来た。賤ヶ岳より勝政の陣に向かって鉄砲隊、弓矢の者を数列に並べ配陣すると、その後方には子姓の面々をおき、更にその後には、丹羽長秀の兵や、先に一度陣を捨て逃げ出した桑山重晴羽田長門の兵が控えていた。

 桑山重晴については、高山右近山岡兄弟と異なって、中川清秀戦闘中に佐久間盛政に通じ退いたのではなく、夜まで盛政に攻撃を待ってもらって退いたので、その評価が人によって異なっている。盛政を欺き、援軍の来るまで時間を稼ぎ戦いを有利に導いた勇士であると評する人。中川清秀が滅亡するを見て一兵も援護せず、盛政に通じ、夜になって、一線を交える事なく、城を開け、秀長田上山に退くため賤ヶ岳を下山、木之本に向かったが幸いに丹羽長秀羽柴秀長の援軍が来たので、盛政賤ヶ岳の砦に入る前に賤ヶ岳砦に帰れたので、援軍がなければ、高山右近と同じ行動をとったので同罪であると評する人と二つに分かれているが、後者のほうが正しいように思われる。それは秀吉柴田勝家を攻める時、桑山重晴は先鋒でなく最後に廻されている事からも察せられる。羽柴秀長の兵は余呉湖畔に降り、湖畔より掘切りに向かって攻めることにした。

 準備が終わり暫し待つうちに、盛政の本隊が権現越近くまで退いたのを見ると、秀吉の予想通り、勝政の兵約3千が退却を始めた。秀吉「今だ、撃てい」の命令一下鉄砲隊、弓隊は一斉に山上の勝政軍の退路に向かって撃ちまくったので、勝政の兵はばたばたと倒れ、山を駆け落ちる者、転り落ちる者、大混乱に落ちいった。
「手柄を立てるのは今ぞ。我と思わぬ者は行け」
と下知すると、先ず前列秀吉の側に控えていた小姓達が、切通しめがけて駆け降りた。続いて丹羽長秀の兵、桑山重晴の兵と駆け降りた。もう道などかまっていられない。賤ヶ岳の斜面をどこも一面になって余呉湖畔に向かって降りて行った。羽柴秀長の兵も黒田観音寺坂から茶臼山を越え尾野呂山から、続々と湖畔にかけて押出した。

 勝政危うしとみた盛政は一旦退いた本隊を再び余呉湖畔へ向かわせた。かくて余呉湖畔は現在の国民宿舎付近から川並付近にかけて、両軍の実に熾烈な戦いが繰り返された。七本槍はじめ、秀吉方の賤ヶ岳における数々の戦功は、ほとんどこの時に立てられたものである。


続く

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