6.七本槍の戦功


賤ヶ岳合戦屏風図


福島正則

 正則は七本槍中でも格別に5千石の恩賞を受けたのであるが、これは人によりいろいろ異説があり正則は働いた場所が、先の14人戦功衆の中にあって、ここでの手柄が秀吉に認められたので、七本槍から除くべきであると説かれた資料もある。正則は賤ヶ岳の戦いがはじまる前に軍法を破りし罪で、刀・脇指を取り上げられ蟄居を命ぜられていたが、密かに隠出て槍を持って、目覚しい戦いぶりを見せた。秀吉も信長に仕えていた若き頃、同じような経験を持ち、叱られる所が信長に喜ばれた事があるので、それを思い表面では叱っていても心の中では喜んでいたのであろうと言われている。槍一本のみで戦ったので、他の七本槍の衆と同じように一番槍の賞を与えたのであろう。その賞状は、

 今度三七殿(信孝)依謀濃州大垣令居陣処柴田修理亮至柳瀬表罷出候条為可及一戦一騎懸に馳向之処心懸深候て早懸付秀吉於眼前合一番槍其働無比類候条為褒美5千石宛行訖 弥向後奉公之依忠勤可遣領知者也仍如件  天正11  6月5日   秀吉(判)

拝郷五左衛門を討ち取ったのも福島正則という説もあり、拝郷を討ち取ったのは糟屋武則との説もあり明らかではない、福島正則5千石には、同じように槍をもって福島にも劣らぬ働きをした加藤清正らから大変不満の声が出ていたのも事実のようである。正則は秀吉の伯母の子で秀吉と従兄弟に当たり、父は樋屋であった。


加藤清正

 清正は秀吉の下知下るや一番に賤ヶ岳を駆け下り、庭戸浜の上に立ちはだかる拝郷五左衛門に「一番槍」と叫びつつ突っ込んだが、五左衛門に馬上から払いのけられ、たじだじとよろめいたが、再び槍を持ち直し少し離れて、鉄砲に薬を詰めんとしていた拝郷五左衛門の鉄砲頭、礪波隼人を一突にしてその首を討ち取った。
 清正に与えられた感状も、福島正則に与えられたものと全く同じ文面で、ただ5千石のところが3千石となっているだけである。
 清正の母は秀吉の母大政所と従姉妹で秀吉と清正は又従兄弟である。父は武士であったが戦いに傷つき武士をあきらめ鍛冶職をしていた。9歳の時伯父加藤喜左衛門に連れられ、秀吉の元に来た。喜左衛門秀吉に清正を見合わせ、「甥だが台所に置いて飯食わせて給われ」といって置いていった。以来虎、虎と呼ばれ子供のない政所、ねねに可愛がられ成人した。


片桐且元

 拝郷五左衛門を討ち取ったといわれる。拝郷五左衛門は信長配下では剛勇をもって鳴らし、信長より大聖寺の城主に命じられていた。尾野呂浜近くで五左衛門を見つけた七本槍の面々群がって突きかかっていった加藤清正の槍は一撃ではね除けられ、続いて突いて出た、石川兵助は拝郷五左衛門の突き出す槍に突き伏せられてしまった。七本槍の面々は、右から左から正面からと突いて出る。五左衛門も右に左に払っていたが多勢にはかなわず、力尽きて遂に討たれた。七本槍の面々が一団となって突きかかかって行ったのであるから、誰の槍にかかったかは明確でなく、片桐且元に討たれたとも言われているが、いや福島正則だ、いや糟屋武則だと説はまちまちである。こうしていろいろの説があることは、それらの人が一団となって拝郷五左衛門一人に襲い掛かっていた事を示している。
 且元の一番槍の感状も清正らと同じ文面である。
 且元の父孫右衛門直貞は近江の出身で、浅井長政の家臣であった。須賀谷に屋敷を持ち且元も弟の貞隆もここで生れたが、片桐直貞は姉川合戦後浅井を見限り織田に寝返り、秀吉の配下になった。したがって且元も幼名を助作と呼ばれ、弟貞隆と共に子供の頃から秀吉に仕えていた。賤ヶ岳の戦功をはじめ、その後の戦功により豊臣家の家老にまでなったが、方広寺の鐘銘などから徳川家康と淀君の中に挟まれ不幸な最後を遂げた。


脇坂安治

 安治は槍をもって群がる敵の中に飛び入り、十字の長柄の槍を縦横に振り廻し、賤ヶ岳山頂から見ていた秀吉の目を見張らせたという。柴田勝家の城下福井県勝山市を訪ねると、勝政は脇坂安治の槍にかかって死んだという説が一般的であるが資料武家事記によると、勝政はこの戦いで討死せず逃れて金森長近の元に身を寄せていたともいわれている。
 一番槍の感状は他の者と同文である。
 脇坂安治は東浅井郡脇坂村(湖北町丁野)の出身で代々京極家に仕えていたが、父戦死後16歳の時信長に仕え、明智光秀の配下に置かれたが、更に信長より秀吉の配下に廻された。終身3万石程度の小大名に終わったが、最後は播州竜野城主となり、脇坂家は明治まで続いた。


糟屋武則

 清水谷近くで桜井佐吉が宿屋七左衛門と戦っていたが、佐吉次第に追い詰められ、あわや宿屋の槍にかかりて果てんとした時、横から糟屋武則突いて出、桜井を助けて宿屋七左衛門を討ち取ったという。
 秀吉の一番槍の感状の文面は同じだが、8月になって「播州賀古郡内2千石、河州河内郡内1千石、都合3千石事、目録別紙相副令扶助畢 永代全可領地候 如件 加須屋助右衛門殿」という書付を秀吉からもらっているので、領地は播磨、加古川で3千石を与えられたようである。関ヶ原の合戦の時は西軍についたため領地を没収されたが、子孫が江戸幕府に小禄で起用され、その時姓を糟屋と改めたので、賤ヶ岳合戦の時の正しい姓は加須屋と書くのが正しいので、糟屋は誤りであるともいわれている。


加藤左馬助嘉明

 嘉明は槍一本で功名をたててきた戦国武将で賤ヶ岳合戦にも槍をもって功を立てたことは記されているが、具体的には誰の首を取ったというようなことは、どの資料にも出ていない。
 秀吉一番槍の感状は他の者に同じ、
 嘉明は三河の長良に生れ、秀吉に使えたのは転生5年で15歳の時であった。父加藤藤三之丞朝明は美濃斉藤氏に仕えていたが斉藤氏滅び徳川氏に仕えたが、その後秀吉に仕えた。嘉明ははじめ秀吉の養子秀勝に配されたが許可なく勝手に抜け出し、秀吉の兵に混ざっていた。秀吉も仕方なく配下に下。以来秀吉の期待を裏切ることなく、秀吉の行く所必ず嘉明あって戦功を高めた。清正と同じ加藤なので何らか血縁的に関係があるのかと思う人もあるが全くの別人である。


平野遠江守長泰

 長泰も賤ヶ岳で一番槍の賞を受けたとのみで、どのような働きをしたのかについては何の記録も残っていない。むしろ弟の長重の方の記録が残っている。盛政の軍散々に敗れ、今は防ぎようもなくなった山路正国、浅井吉兵の二人は清水谷を余呉の方に落ちんとした時、これを見つけた平野長泰、渡辺勘兵衛、浅井喜八郎ら、大音声にて「見知りたるぞ返して勝負あれ」と叫ぶと山路ら「おぅー」と言って引き返してくる。山路正国の一族は正国が盛政に通じた罪で全員捕らえられ、逆さつりにされ堂木山で殺されているので、恨み骨髄に徹し、弔い合戦とばかり、死を覚悟で縦横に斬りまくったので、秀吉方の兵どれだけを斬ったか数えられなかった。もはや首を取って手柄を立てる気もなく、恨みだけが一念で朝より手当り次第に斬ってきたのである。しかし、体は疲れはて今は歩くがやっとであった。そこを数人の者で突いて出たので、何をと最後の勇を振って太刀に手をかけ、岩の上に足を踏ん張った途端、運悪くも谷下に逆落しに落ち、半死の状態の所を谷下にいた大塩金右衛門の手の者、八月一日(はずみ)五左衛門に首を取られる。浅井吉兵衛も同じ運命で命を落すという。
 長泰も秀吉から同じ一番槍の賞状はもらったが、その後他の同輩は戦いの度に功をあげ10万石20万石と稼ぎを重ねていくのに、長泰だけは功もなく禄も5千石止まりで秀吉の最盛期にも加増されることはなかったので、賤ヶ岳の合戦は怪我の功名でなかったのかと悪口をいう人もある。
 平野家の出自は明らかでないのが尾張津島に住する平野万久の元へ、長泰父長治を養子にもらい、その子が長泰である。長泰は権平と称し、はじめ長勝と名乗った。長泰が秀吉に仕えたのは天正7年(1579年)21歳出会った。


石川兵助一光

 兵助は秀吉の旧臣で賤ヶ岳合戦には秋田助右衛門と共に旗奉行を勤めていたが、加藤嘉明に思いをかけていたが、出陣に当り自分の冑を脱ぎ嘉明に着けてやったが、嘉明怒って冑を脱ぎ捨てたので、冑を着けずに槍を持って勇ましく一番に突いて出たはよいが、最初に余りに大物拝郷五左衛門を狙って「われこそ石川兵助尋常に勝負致さん」と突いて出たが、拝郷の敵ではなく、五左衛門の突き出した槍に左の目を突き刺され討死した。秀吉哀れに思い、その勇を賞して一番槍の賞状を、弟長松を召出して1千石を与えた。したがって文面は3千石の所が千石となっており、宛名も石川長松殿となっている。
 兵助は前夜、福島正則と口論致し刺違えんという所までいったが、明日の戦いを前にして何事ぞと他の面々に諭され「明日は真先に功名立てん」と、福島正則の手前もありただ一人で真先に飛び出して行ってこの難にあった。皆々怒りは戒とすべしと言い合ったという。一光は美濃鏡島の出身で家光の子である。


桜井佐吉

 佐吉ははじめは秀吉の小姓をしていたが、後秀長の臣に廻された。佐久間盛政が中川清秀を討った時、木之本田上山の秀長の陣より、秀吉にこの事を知らせる早駆の飛脚として出されたのが、この佐吉であった。この時佐吉の馬は大垣についた時は倒れてしまったので、帰りは大垣から木之本まで本隊と共に素足で走り続けて帰ったという。秀吉はそれを聞いて早速秀吉の換え馬にしていた栗毛の名馬「菊額」を与えたという。秀長の臣下に廻しは下が、秀吉は以後も桜井佐吉には目をかけていた。
 佐吉も他の七本槍の面々と共に賤ヶ岳を余呉湖畔に駆け降りたが、まだ敵の大将らしい姿が川並側の山の中腹に見えたので、再び急斜面を駆け上がっていった。秀吉はじめ賤ヶ岳の上からは、何と無理な事をするものぞと同輩が見ていると、木陰に隠れていた敵から、さっと槍が突き出され佐吉の胸板を突き抜いたかに見えた。佐吉は馬から落ちると共に30mもあろうと思われる崖下に真っ逆様に落ちて頭蓋骨が割れたのか動かなくなった。あっと叫んで見ている者皆固唾を飲み、佐吉は死んだものと思った。ところがしばらくすると、その佐吉がむくむくと起き上がってきた。見ると兜の前立は砕け、顔は擦り傷から血が出ているのに、槍を拾い上げ、今度は徒歩で腹ばいながら急坂を登って行った。登りつめた所で、木陰に向かって槍先が光ったと思うと、しばらくして先程の敵の首を槍先に突き刺し、賤ヶ岳の方に向かって振っていた。秀吉は無論佐吉にも同じ一番槍の感状を与えた。太閤記などにはその功を賞して秀長は3万石、秀吉は2万石都合5万石が与えられたなどと書いてあるのは誤りで、他の七本槍の者同様に丹波で3千石を与えられたのである。


 秀吉から一番槍の感状と3千石宛(福島正則のみ5千石)を与えられたのは以上9人で、ただ石川兵助のみが戦死のため、幼少の弟長松の名で千石となっているが、他はすべて感状の文面も与えられた禄も同じで、甲乙何の差別もなく、秀吉が七人だけを特別扱った点はどこにも見当たらない。無論秀吉が七本槍などとは一言も言っていない。そうすれば七本槍の名はどこから出たのであろうか。これは後世の人が勝手に作り上げたもので、9人を7人にするためにずいぶん無理をされたように思われる。こうした戦記物語がどっと世に出てきたのは江戸時代であるが、これらの作者は、物語を数値に当てはめて語るのが好きであったらしい。従って聞く方にも読む方にもそうしたものが余程受けたものと思う。三人衆、五人頭、七不思議とか非常に多い。戦いの中でも七本槍の名は至る所の戦記物に出ている。徳川秀忠が関ヶ原の戦いに向かう途中、真田昌幸の上田城を攻めた時、真田昌幸、幸村らの策に落ち苦戦した時、槍を持って奮戦秀忠を助けたという「真田七本槍」を始め、弘治元年に今川義元に属していた徳川氏が、尾張の蟹江城を攻めた時槍を持って戦ったという「蟹江の七本槍」天文17年今川義元と織田信長が東三河の支配で小豆坂で戦った時の「小豆坂の七本槍」などその例は多い。特に賤ヶ岳の戦いはほとんどの兵が槍を持って戦っているので槍の戦いといってもよい。何も七人だけが槍を持ったのではない。

 その賤ヶ岳の七本槍の名の起こりとして小豆坂の七本槍が出てくるが、小豆坂の七本槍というのは、織田信長が4千騎をもって4万の今川義元の軍に挑むため、地の利を得ようと早々に小豆坂に登り坂上に陣取り坂下の今川勢をめた。今川勢は大変苦戦になったが、夕方には和を頼み坂上に攻め登り、今度は逆に反対側の坂下へ織田勢を攻め落とし、織田軍は総崩れとなった。その時織田の槍隊が目覚しい活躍をした。中でも織田孫三郎信光、織田造酒丞信房、岡田助左衛門重能、佐々隼人勝道、佐々孫助勝重、中野又兵衛重吉、下方左近匡範の7人が驚くべき働きをして難を食い止めたというのでこの七人を後の人が小豆坂の七本槍といった。これによく似た戦いをしたので賤ヶ岳にも七本槍の物語りを作らんと後世の人が作り上げたのである。9人を7人に減らすために、福島正則は働いた場所も恩賞も違うので正則と戦死した石川兵助を除いての説が出たが、正則は秀吉が一番槍の中でも最も重視していたのに、これを戦死した兵助と同列にはできない。次には平助は戦死、桜井佐吉も2年後に病死したので2人を除かんと下が、佐吉は病死などしていない。佐吉は慶長元年8月に死んでいるので、それまで病死などしていない。それで今度は、石川と桜井の中へ伊木半六郎遠雄を入れて三振の太刀という一説を作り上げた。しかし石川も桜井も槍をもって戦い槍で感状をもらっているのに、このような馬鹿な話は成り立たない。では後世の人がどのような理由で9人の中から石川兵助と桜井佐吉を除いたのであろうか。これについて二木謙一先生は譜代と陪臣の説を出しておられる。7人は秀吉直臣のい小姓であるのに対し、桜井佐吉は前にも述べたように秀吉から弟秀長の方へ使わされた秀長の臣となっている。石川兵助もまた秀吉の小姓であったが秀吉が信長の子を養子とした羽柴秀勝の方へ使わされ、賤ヶ岳合戦の時は、この二人は秀吉の直臣でなかったのでこの二人を除いたのであろうと書いておかれる。いずれか正しいかは分からないが、七の数値を歌わんために後世の人が随分苦心して作り上げたのが、現在の七本槍のようである。

 この戦いでは、七本槍の衆だけが槍を奪って戦ったような印象を受けるが、決してそうではなく、敵も味方も槍をもって戦った槍の戦いともいうべきものであった。またその戦功についても七本槍の衆が特にずば抜けていたとも考えられない。この戦場ではこの秀吉から感状をもらった者より、もっと優れた戦功を立てた者はたくさんある。七本槍の衆の中でも、槍をもって一番に飛び出して戦ったというだけで、どのような戦功があったのか分からない者もある。それなのに秀吉はなぜこの9人のみに一番槍の感状と3千石の領地を与えたのであろうか。これには戦功という以外に秀吉の思惑が多分に働いていたと思われる。この9人の者は、ほとんど子飼いの小姓達で秀吉が日頃から目をかけ、将来股肱の臣としての大きな期待をかけていた者達ばかりである。この機会に戦功を顕彰すると共に、今後への激励でもあったようである。賤ヶ岳の合戦後これらの衆は戦功を競うようにして、秀吉のために働いた。石川兵助は戦死したが、その弟頼明(長松)は兄に代わり1千石を与えられたが、すぐに秀吉の小姓として入り、数々の戦功を立て、播磨、丹波などで1万5千石を与えられている。平野長泰は和州芳野で5千石を得てとまってしまったが、これは戦功がなかったというよりも、心猛しくて、秀吉に背くことが多く、秀吉と折り合いがわるかったのが原因であったのではなかったかという説もある。


賤ヶ岳合戦屏風図


続く

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